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「私の代で家系を断絶することに…」徳川慶喜の玄孫が“将軍家のお墓”を「墓じまい」する理由とは

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「私の代で家系を断絶することに…」徳川慶喜の玄孫が“将軍家のお墓”を「墓じまい」する理由とは

2021年度、自治体が遺体を葬ったケースは約8600件に上るという。高齢化と孤立化で「無縁遺骨」や「墓じまい」が社会問題になっているのだ。

ここでは、無縁遺骨の実態と墓じまいの現状に迫った作家・森下香枝氏の著書『 ルポ 無縁遺骨 誰があなたを引き取るか 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。将軍家や大名家の子孫は、どのように「墓じまい」と向き合っているのだろうか。

鍵は子孫が代々管理してきた

少子化や核家族化の影響で増える「墓じまい」。歴史上の人物で子孫が代々、守ってきた江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜家の墓も例外ではなかった。慶喜の玄孫が「絶家」と「墓じまい」について語った。

台東区にある都立谷中霊園内に約300坪の敷地を有する江戸幕府最後の将軍(15代)徳川慶喜の墓所。

高い柵や塀に囲われ、金に輝く葵の紋があしらわれた鍵付きの門が正面にそびえ立つ。都指定史跡の文化財だが、墓所は一般公開されておらず、鍵は子孫が代々、管理してきた。

慶喜の玄孫で現在、墓や史料などの管理をしている山岸美喜さん(56歳)に裏門の鍵を開けてもらい、中へ入った。山岸さんの祖父は慶喜の孫で3代目当主・慶光で、4代目当主・慶朝は母親の弟、叔父という間柄だ。

敷地内に入ると、中央には徳川慶喜の墓、向かって右隣には正妻の美賀子、慶喜の墓の後ろには側室の新村信子(右)、中根幸子(左)の墓があった。

慶喜の孫にあたる高松宮妃喜久子さまが寄贈した記念碑もあった。

一番、左側には慶喜家歴代当主が入る墓がある。いずれの墓も珍しい神式の石造りの円墳だ。

遺言で指名され相続財産執行人に

2017年に4代目の慶朝が死去し、徳川姓を名乗る男子がいなくなった。

慶朝をみとっためいの山岸さんが遺言で「相続財産執行人」に指名され、喪主として葬儀をした。慶朝は生前、徳川一門とほとんどつきあいをしなかったため、参列者はわずか10人ほど。徳川慶喜家の墓や史料など山岸さんがすべて責任を負うことになった。

「当主として慶喜家の墓に入るのは叔父(慶朝)が最後。私の代で絶家にすることになりました。親族らも同意してくれた」と明かす。

裏門には「塀の崩落注意」という大きな看板が掲げられ、立ち入り禁止を示すポールが塀沿いに並べられていた。「塀を修理するだけで2000万円前後はかかる。そんなお金はとてもとても……」と山岸さん。

山岸さんの祖母は松平容保の孫・和子で3代目当主、慶光に嫁いだが、婚礼の写真は袿袴(けいこ)。

昭和前期には小石川の邸宅で暮らしたが、戦後は膨大な財産税が課せられ、屋敷などは国に没収され、静岡市を経て、町田市の一軒家、マンションなどで暮らし、生活は質素だった。「祖母にお屋敷で育ったのにマンション暮らしになって『昔はよかったな……と思うことないの』と尋ねたら、『だってしょうがないじゃない。時代というものなのだから』と淡々と話していました」と振り返る。

「日本の歴史として残していきたい」 もはや慶喜家の墓所や史料を管理するにも子孫個人の力では難しい。「個人の家のものではなく、歴史や文化財として管理してもらった方がいい」と山岸さん。

だが、歴史的墓所であっても、「墓は個人の所有なので、継承者が管理するのが原則」(東京都公園課霊園担当)という。さらに慶喜家の墓所は谷中霊園内にあるが、土地の所有者は徳川家歴代将軍の墓がある寛永寺となっている。

慶喜は大政奉還後、徳川宗家(将軍家)の家督を幼い家達(いえさと)に譲り、隠居した。

明治維新後に明治天皇から公爵の爵位を与えられ、宗家から独立し、徳川慶喜家を創設することが許され、仏教から神道に改宗し、谷中霊園に神式の墓地がつくられた。

山岸さんは「寛永寺、都、徳川家ゆかりの団体などに相談しながら墓じまいを進めている」と話す。

山岸さんは墓だけでなく、叔父から慶喜家に代々、伝わる慶喜直筆の書など5000点にも上る史料の責任も負っている。

行政に史料の保存や公開方法などを相談し、「これからは家族の歴史ではなく、日本の歴史として残していきたい」と語る。

「墓を掘り起こしたら人骨の一部も見つかった」100年以上続く旧大名家の知られざる“お墓事情” へ続く

(森下 香枝/Webオリジナル(外部転載))

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