google.com, pub-7968705260480278, DIRECT, f08c47fec0942fa0 【偉人雑学】織田信福の人生 - 人生好転!【金運】爆上げし続けるためのブログ

【偉人雑学】織田信福の人生

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名前くらいは知っているよ、という方は増えて来た一方、実際に何をした人物なのかと言うと、その認知度は今一つな印象です。

そこで今回は、幕末を代表する?イケメンの一人・織田信福の人生を紹介したいと思います。

■織田信福、医学を志して歯科医になる

織田信福は江戸時代末期の万延元年(1860年)2月9日、土佐国幡多郡宿毛(現:高知県宿毛市)で生まれました。

最初の名前は羽田馬三郎(はた まさぶろう)、8歳となった慶応4年(1868年)時点で地元の伊賀(いが)家に奉公していた記録が残っています。

明治6年(1873年)には幡多郡宿毛村第二百八番小学下等小学第七級(※)を卒業、卒業証書には羽田信福とあり、それまでに元服・改名していたのでしょう。

明治13年(1880年)、20歳となった信福は医学を志して高知(現:高知市)へ転居、蘭学医の山崎立生(やまざき りっせい)に入門しますが、翌明治14年(1881年)に立生が亡くなってしまいました。

新たな師を求めて明治17年(1884年)に上京、歯科医の高山紀齊(たかやま きさい)に弟子入り。翌明治18年(1885年)には歯科医術開業試験に合格。

この時の免状には織田信福と記されていますが、これがどうして旧姓の羽田から織田に変わったのか、その根拠は不明です。戦国時代ならいざ知らず、公的な免状に勝手な自称・通称は使えないはずですが……。

■夫婦仲良く爆弾づくり、いざ上京

ともあれ故郷に錦を飾ったその年、信福は亡き山崎立生の次女・山崎竹(たけ)と結婚。竹は高知女子師範学校を卒業していた才女で、夫や植木枝盛(うえき えもり)らの影響で自由民権運動に目覚め夫婦で身を投じることになります。

「畏れ多くも天皇陛下を蔑ろにし、私欲のままに政治権力を独占している政府要人らを爆殺すべし!」

「えぇ、あなた!」

かくして明治20年(1887年)、信福夫妻は同志らと共に爆弾を密造。義挙決行の時機を狙うべく上京しますが、テロ活動を阻止するために制定された保安条例の適用によって追放されてしまいます。

幸い爆弾は見つからなかったものの、成功の望みを失った以上、持っていても無用の長物。

「帰ろうか……」

「……えぇ」

信福らは帰り途上に爆弾を捨てていったそうですが、一ヶ所にまとめて処分しなかった辺り、せっかく作り上げた爆弾に再起の未練があったのかも知れません(あるいは、官憲に証拠をつかませないための用心だった可能性もあります。

■エピローグ

その後、信福は歯科医に専念して大日本歯科医師会高知部会長や高知県歯科医師会会長などを歴任、高知県の医療充実に貢献しました。

一方、竹は明治21年(1888年)に高知婦人会を結成、女性の権利を求めて活発な言論活動を展開します。

プライベートでは、永らく子供がいなかったため明治26年(1893年)に養女の猪佐(いさ)を迎え、明治32年(1899年)には長女の富士(ふじ)が誕生。

後に婿養子をとって家業を継がせました。

明治41年(1908年)6月10日に竹(享年42歳)と死に別れた信福は、自身も大正15年(1926年)1月13日に66歳で世を去ったのでした。

医学に志し、自由民権運動に挫折した織田信福。両極端のようでいて、どちらも「人々を安んずる」思いにおいて共通しており、それは今も土佐人の中に熱く脈打っていることでしょう。

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※YouTubeで観る

明治維新以降の偉人列伝
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