天才・勝新太郎の誕生
歌舞伎役者の家に生まれる
勝新太郎、本名・奥村利夫(おくむらとしお)。 彼は1931年11月29日、東京都江東区(旧東京市深川区)で生まれました。 父親は長唄三味線方の杵屋勝東治(きねやかつとうじ)。 幼少期から芸の道を頑張っていただきましたが、勝新は型にはまるのが大嫌いな性格でした。
学校でもじっとしていられず、問題児扱いされることもしばしば。
本来なら長唄三味線方の道を進むはずだった勝新だが、「自分のやりたいことを貫きたい」という気持ちが強く、勝新太郎が俳優を志したのは、1954年にアメリカでジェームズ・ディーンと出会い、その影響を受けたことが大きな要因でした。
これが、彼の破天荒な人生の始まりでありました。
俳優を志すも、苦難のスタート
役者を目指した勝新は、日本大学芸術学部に進学します。しかし、学問よりも遊びに熱中し、あまり大学には行かず、結局中退してしまいます。
映画の世界に入ろうとするもの、当初はなかなか芽が出なかった。
一時は端役だけの下積みが続きましたが、「どうせ俺にしかできない時代劇をやるしかない」と決意。ここから彼の個性が爆発し、唯一無二の存在へと成長していきます。
大映でのデビューと挫折
1954年、大映に入社し、ガイド映画俳優としてのスタートを切った新しさ。
彼に与えられるのは脇役や悪役ばかり。若手俳優としては恵まれたポジションではありませんでした。
勝新の転機が訪れたのは、1962年。「座頭市物語」で主演が決まったことでした。ここから、彼の運命は大きく変わっていきます。
「座頭市」誕生!一世風靡した大スター時代
「座頭市」主演が人生を変えた!
1962年、勝新は「座頭市物語」の主役に抜擢されます。この作品で彼が演じたのは、目の前の客・座頭市。斬新なキャラクターと、彼の圧倒的な存在感が話題を呼び、大ヒットを記録しました。
激しい殺陣(たて)は、それまでのチャンバラ映画は一線を画し、リアルでダイナミックなスピードが特徴的でした。
この映画の成功により、勝新は一気にトップスターへ。 しかし、その豪快すぎる性格が、後にさまざまなトラブルを抱えることになります。
破天荒な撮影エピソードの数々
勝新太郎は、撮影現場でも自由奔放な振る舞いで有名であった。監督の指示を無視し、自分の好きなように演技を変えることも日常茶飯事。
ある日、撮影中に監督から「勝さん、少し控えめに演じてください」と言われ、勝新は「映画は俺が作ったんだ!」と激怒し、現場を混乱させたこともありました。
この破天荒な行動は、映画にとってプラスなこともありましたが、同時に映画関係者から「扱いにくい役者」と思われる原因にもなりました。
飲む打つ、豪遊…業界の異端児としての評判
勝新は、豪快な性格と派手な遊び方でも有名でした。 競馬、麻雀、カジノ…ギャンブル好きが高じて、かなりの借金もあったといいます。
また、豪遊も桁違いでした。 飲み会では「全員のは俺が払う!」と言い、数百万単位の酒代奢ることも多々あった。
このような破天荒な行動は、多くのファンや仲間たちから愛され、業界内では「トラブルメーカー」として警戒されることにもなりました。
このように、勝新太郎は日本映画界の伝説的なスターでありながら、その破天荒な生き方が彼の人生を大きく左右しました。
勝プロダクションの挑戦と挫折
映画界の革命を目指した「勝プロ」設立
「座頭市」の成功でトップスターになった勝新は、次なる野望を抱きます。 それは、自分の理想とする映画を作ることです。 1967年、彼は「勝プロダクション(通称・勝プロ)」を設立しました。
勝プロは、当時の日本映画界にはない、俳優が自ら制作を主導するスタイルを取りました。 勝新は「映画は俺の人生そのもの」と語り、監督やプロデューサーの意向を無視してでも、自分が納得できる作品を作りました。
こだわりは徹底しており、セットや衣装に巨額の資金を投入。
しかし、このやり方は多額の制作費を必要として、その後の経営を圧迫していきます。 勝新は俳優としては天才でも、経営者としては無計画な部分が多く、莫大な借金を背負っていきました。
莫大な借金と制作トラブルの連続
勝プロは「座頭市」シリーズを中心にヒットを飛ばしましたが、勝新の完璧主義が災いして、制作費が膨らむことが常態化していました。
さらに、彼の「俺が全てを決める」というワンマン経営が裏目に出て、スタッフとのトラブルが絶えなかった。
特に1973年に公開された「座頭市御用旅」は、撮影の遅れと予算オーバーが重なり、大慌てとなりました。この頃から勝プロは経営危機に陥り、借金がどんどん膨らんでいきます。
勝新は借金を返すために、次々と新作を企画しましたが、焦りからかクオリティは徐々に低下していきました。
テレビ界進出と「SHOGUN」降板事件
映画界での苦境を打破するため、勝新はテレビドラマの世界にも進出します。 1974年にはテレビドラマ版「座頭市」をスタートさせ、一定の成功を収めました。
しかし、彼の破天荒な行動はテレビ業界でも問題視された。現場では監督を差し置いて勝新が指示を出すこともあり、トラブルが絶えなかったのである。
さらに、彼はハリウッド進出も決まり、1980年に制作されたアメリカのドラマ「SHOGUN」に出演が決まりました。 しかし、撮影中にスタッフと衝突し、「こんなものは俺のやりたい仕事じゃない!」と現場を去ってしまいます。
ハリウッド進出の夢は潰え、勝新は「業界のトラブルメーカー」としてますます孤独にしていきます。この頃から彼のキャリアは完全に降下線を本格的に始めました。
転落と復活、そして最終期
薬物スキャンダルと業界からの追放
1980年、勝新は世間を騒がせる大事件を起こします。 ハワイ旅行中、彼の荷物の中から大麻とコカインが発見され、現地で逮捕されたのです。
「俺は知らなかった」「誰かが仕込んだんだ」と主張しましたが、世間の反応は冷たく、彼のキャリアは完全に崩壊しました。
かつてのスターが、スキャンダルで転落するというショッキングな出来事に、ファンも落胆。勝新のカリスマ性は失われ、彼は表舞台から姿を消すことになった。
晩年の苦悩と妻・中村玉緒の支え
スキャンダル後、勝新は一線を退きましたが、妻・中村玉緒の支えの下で静かに暮らしていました。彼女は夫の復帰を願い続け、支え続けました。
しかし、映画やテレビの仕事はほとんどなくなり、かつての豪快な生活は影を潜めていきます。
長年の不摂生とストレスがあったり、次第に体調を崩していきました。
「スターは死んでもスター」最後の言葉と伝説の継承
1997年6月21日、勝新太郎は腎不全のため65歳でその生涯を閉じました。
「スターは死んでもスターだ」
耐えられない破天荒な人生は、多くの波乱に満ちたものでしたが、彼の演じた「座頭市」は今も多くの人々に愛され続けています。
勝新の死後、妻・中村玉緒が遺した借金を克服するために奮闘しました。彼女の活躍によって、勝新の名誉は徐々に回復し、今では伝説の映画スターとして語り継がれるようになりました。
勝新太郎という唯一無二のスター
破天荒な生き様を貫いた勝新太郎。 彼は映画史に残る名作を抱きながらも、その豪快な性格が原因で何度も挫折を味わいました。
しかし、彼の作品は今も色あせる事なく語り継がれています。
スターは死んでもスター。
勝新太郎という伝説は、これからも永遠に生き続けるでしょう。