輝かしいデビューとスターへの道
名門育ちの少女時代と芸能界入りのきっかけ
1957年12月17日、東京都港区に生まれた夏目雅子。本名は小達(おだて)雅子。
実家は横浜で不動産業を構え、裕福な家庭で育ちました。
実はこの頃、女優になるつもりはなく、将来は普通に結婚して家庭に入ることを夢見ていました。
しかし、彼女の美しさは周囲の目にとまり、1976年にコンサルティングを受けます。
最初は戸惑ったもの、「今しかできないことをやってみよう」と芸能界入りを決意。
1977年、映画「鬼畜」で女優デビュー
このとき、主演の緒形拳や岩下志麻と共演し、演技力を高く評価されました。
その後、CMやドラマへの出演が増え、徐々にを上げていきます。
順調に女優としての道を歩み始めた夏目雅子。 しかし、彼女の運命を変えたのは、ある大ヒットドラマでした。
「西遊記」三蔵法師役で大ブレイク!国民的スターへ
当初、三蔵法師のキャスティングには男性俳優が予定されていましたが、彼女のオーディションでの佇まいがあまりにも美しく、急遽「女性の三蔵法師」としても起用されることが決まります。
丸坊主の姿が話題になり、「こんな美しい三蔵法師は見れない!」と視聴者の間で大反響を呼びました。 ドラマの主題歌「モンキー・マジック」とともに大ヒットし、夏目雅子は一躍国民的スターとなったのです。
このドラマの成功により、彼女は演技派女優としての地位を確立。
「鬼龍院花の生涯」で見せた本物の女優魂と名札誕生秘話
1982年、映画「鬼龍院花の生涯」に出演。この作品で彼女は、土佐の客客・鬼政五郎の娘松恵役を演じた。
特に有名なのが、作中の名前。
「なめたらいかんぜよ!」
実は、この決めたのは脚本にはなかったもの。
夏目雅子が役に入り、監督の指示のもとで生まれたアドリブだった。
この映画での演技が評価され、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。
日本映画史に残る名シーンとなりました。
しかし、彼女の輝かしいキャリアは、臨時として暗転することになります。
突然の病と闘い続けた日々
最初の体調不良と白血病の瞬間
1984年、映画やドラマで多忙を極める中、夏目雅子は突然体調不良を抱えていました。
最初は風邪のような症状だったので、本人もあまり気にしていませんでした。
しかし、だんだん倦怠感や発熱が続き、結局仕事ができないほどの状態に。
病院での検査の結果、彼女が苦しんでいるのは急性骨髄性白血病でした。
まだ26歳、これからという時期の病魔。しかし
彼女は落ち込んでおり、治療に専念することを決意します。
病室で綴った日記と最後まで諦めなかった希望
入院生活が続いている中、夏目雅子は日記を綴っていました。
「絶対に治って、またお芝居がしたい」
彼女は最後まで希望を捨てず、笑顔を絶やしませんでした。
彼女の最後の言葉は、「みんなにありがとう」だった。
夏目雅子が遺したもの
伊集院静が語る「最愛の妻との別れ」
夫・伊集院静は彼女の死後、しばらく表舞台から姿を消しました。 しかし後に彼女を偲び、多くのエッセイや小説を執筆しています。
「夏目雅子ひまわり基金」に込められた願い
夏目雅子の家族は、彼女の遺志を継ぎ「夏目雅子ひまわり基金」を設立。
白血病の治療研究や患者支援のための活動を続けています。
夏目雅子は、わずか29年という短い生涯でしたが、その美しさと演技は今も多くの人の記憶に刻まれています。
彼女の輝きを、これからも忘れずに語り継いでいきたいです。
ぜひ、彼女の作品をじっくり見てみてください。
最後までご視聴いただき、ありがとうございました!