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【偉人雑学】田沢稲舟:鶴岡の偉才とその文学世界

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田沢稲舟:鶴岡の偉才とその文学世界

稲舟の生涯と作品

田沢稲舟(本名・田澤錦)は、1874年12月28日に旧鶴岡五日町(現・木根渕医院)で、医師の父・田澤清と事業家の母のもとに生まれました。彼女は妹・冨と共に何不自由なく育ち、幼い頃から文学に目覚めました。朝暘小学校高等科を卒業後、東京に上京し、当時の人気作家・山田美妙に師事して文学修行に励みましたが、1896年9月10日にわずか21歳で短い生涯を閉じました。

稲舟の作品は、詩37編、新作浄瑠璃9編、小説5編、自伝等3編、計55編があります。今回、細矢昌武校訂編集による「田澤稲舟全集」としてまとめられ、東北出版企画より刊行されました。

高山樗牛と稲舟

高山樗牛は稲舟より3歳年上の1871年生まれで、「滝口入道」で華々しくデビューし、一高教授を勤める傍ら、文学評論でも活躍しました。樗牛は同郷の稲舟に注目し、「太陽」「帝国文学」などの誌上で稲舟の文学を批評し、期待を寄せていました。特に「帝国文学」では、稲舟を樋口一葉に次ぐ作家として、その将来を嘱望していました。

樋口一葉と稲舟

樋口一葉は1872年生まれで、稲舟と同時代の作家です。明治20年代には多くの女性作家が活躍し、平安朝以来の女流文学隆盛の時代といわれました。中でも一葉と稲舟は際立っており、1895年12月号の『文芸倶楽部』では一葉の「十三夜」「やみ夜」と稲舟の「しろばら」「片恋」、1897年1月の同誌には一葉の「うつせみ」と稲舟の「唯我独尊」が同時掲載されました。

一葉と稲舟の間には何らかの交流があったとされ、1895年夏ごろの一葉の歌稿「うたかた」には「いな舟 かのぬし 稲ふね かのぬし参られ候 田澤 田澤 田澤」という書き込みが見られます。

鶴岡と稲舟

1890年代後半、中央の代表的な文芸雑誌に次々と作品を発表し、樋口一葉と並び称された稲舟について、出身地鶴岡の人々はあまり注目してきませんでした。笹原儀一郎氏や工藤恒治氏など限られた研究家のみが作品の一部を所持し、一般にはあまり知られていませんでした。作品が雑誌に発表されただけで、一葉のように全集としてまとめられることもなかったからです。また、稲舟の文学の新しさ—前近代的束縛からの人間開放、自己主張—が、城下町鶴岡の風土に受け入れられるには時間がかかったのかもしれません。

稲舟文学の最大の特色は、人間本来の思想と行動を束縛する世の常識や道徳を、時代を支配する権力者たちが現状を維持するために作り上げたものとして批判し、それに抗う近代的自我の展開と表現の抒情性です。そういう意味では、当時も今も、世の支配階級や旧体制の権威に依拠して生きる人々にとって稲舟は「危険思想」だったのでしょう。

稲舟の文学作品を通して、その時代を超えたメッセージに触れてみてはいかがでしょうか。彼女の作品は、現代の私たちにも大きな示唆を与えてくれることでしょう。

 

 




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