関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)に豊臣政権内部の対立が激化して起こった大規模な合戦です。
この戦いの結果、徳川家康率いる東軍が勝利し、江戸幕府の成立に道を開きました。
一方、石田三成率いる西軍は敗北し、多くの大名が改易や減封の処分を受けました。
しかし、西軍には参戦できなかったり、戦闘に消極的だったりした大名もいました。
その中でも、特に「西軍最強」と呼ばれたのが、上杉景勝です。上杉景勝は、越後・出羽・陸奥の
3ヵ国を支配する大大名で、関東の徳川家康とは長年にわたって対立していました。
しかし、関ヶ原の戦いでは、東軍の伊達政宗や最上義光に阻まれて本戦に参加できませんでした。
その後、上杉景勝は領地を越後1ヵ国に減らされ、会津に移されました。これが、上杉景勝の悲劇と
言われる所以です。
上杉景勝はなぜ、関ヶ原の戦いに参加できなかったのでしょうか?
その理由を探るためには、
上杉景勝の人物像や、関ヶ原の戦いに至るまでの経緯を知る必要があります。
そこで、この記事では、以下の4つのポイントについて解説します。
上杉景勝の人物像と特徴
上杉景勝と徳川家康の関係と対立
上杉景勝と豊臣政権の関係と協力
上杉景勝と関ヶ原の戦いの関係と影響
それでは、早速見ていきましょう。
上杉景勝の人物像と特徴
上杉景勝は、天正6年(1578年)に上杉謙信の養子となり、上杉家の家督を継ぎました。
上杉謙信は、戦国時代を代表する名将として知られており、上杉景勝はその後を継いで
越後・出羽・陸奥の3ヵ国を支配する大大名となりました。
上杉景勝は、謙信の遺言に従って、謙信の側近であった直江兼続を重用しました。
直江兼続は、上杉景勝の軍師や政治家として活躍し、上杉家の発展に貢献しました。
上杉景勝は、謙信に比べると穏健な性格で、戦闘よりも外交や政治に長けていました。
上杉景勝は、豊臣秀吉や徳川家康との関係を巧みに築き、上杉家の存続を図りました。
しかし、上杉景勝は、自分の領地や権利を守るためには、必要に応じて戦闘にも臨みました。
上杉景勝は、謙信の遺した兵法や戦略を継承し、優秀な武将や家臣を多く抱えていました。
上杉景勝は、関ヶ原の戦いに参加できなかったことで、その実力を発揮する機会を失いましたが、
それでも「西軍最強」と呼ばれるほどの評価を得ていました。
上杉景勝と徳川家康の関係と対立
上杉景勝と徳川家康は、関東の覇権をめぐって長年にわたって対立していました。
上杉景勝は、謙信の時代から続く関東の領有権を主張し、徳川家康の勢力拡大を阻止しようとしました。
徳川家康は、上杉景勝を最大の敵と見なし、上杉家の内紛や他の大名との同盟を利用して、
上杉家の勢力を削ごうとしました。
上杉景勝と徳川家康の対立は、天正18年(1590年)の小田原征伐で一時的に沈静化しました。
この時、豊臣秀吉は、全国統一を目指して北条氏を攻め滅ぼしました。
上杉景勝は、秀吉の命令に従って出兵しましたが、徳川家康は、秀吉の与力として活躍しました。
秀吉は、徳川家康に関東8ヵ国を与えて関東に移し、上杉景勝には越後・出羽・陸奥の3ヵ国を
与えて越後に移しました。
これにより、上杉景勝と徳川家康の間には、秀吉の仲介が入ることになりました。
しかし、秀吉の死後、豊臣政権内部での対立が激化すると、上杉景勝と徳川家康の対立も再燃しました。
上杉景勝は、秀吉の遺言に従って、豊臣秀頼の後見人となった石田三成に味方しました。
徳川家康は、石田三成に反発し、自らの権力を強化しました。
これが、関ヶ原の戦いの直接的な原因となりました。
上杉景勝と豊臣政権の関係と協力
上杉景勝は、豊臣秀吉との関係を保ちながら、自分の領地や権利を守るために協力や抵抗を
繰り返しました。
上杉景勝は、秀吉の天下統一には積極的に協力しましたが、秀吉の検地や軍役には消極的に応じました。
上杉景勝は、秀吉の朝鮮出兵にも参加しましたが、自分の領地の防衛を優先しました。
上杉景勝は、秀吉の死後、豊臣秀頼の後見人となった石田三成に味方しましたが、それは、
秀吉の遺言に従ったこともありますが、徳川家康に対抗するための戦略でもありました。
上杉景勝は、石田三成と連携して、徳川家康の勢力を牽制しようとしました。
しかし、石田三成は、徳川家康に対して積極的に攻勢に出ることを決めました。
これにより、関ヶ原の戦いが勃発しました。
上杉景勝と関ヶ原の戦いの関係と影響
関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に岐阜県の関ヶ原で行われました。
この戦いは、豊臣政権内部の対立を決着させるための最終決戦となりました。
石田三成率いる西軍は、約12万の兵力を擁しました。
徳川家康率いる東軍は、約9万の兵力を擁しました。
上杉景勝は、西軍の一員として、約2万の兵力を率いて出陣しました。
しかし、上杉景勝は、関ヶ原の戦いに参加できませんでした。
その理由は、東軍の伊達政宗や最上義光によって阻まれたからです。
伊達政宗や最上義光は、上杉景勝の領地に隣接する大名で、上杉景勝とは以前から
対立していました。
伊達政宗や最上義光は、上杉景勝が関ヶ原に向かう途中で、上杉景勝の領地を攻撃しました。
上杉景勝は、自分の領地を守るために、関ヶ原に向かうのをやめて、伊達政宗や最上義光と戦いました。
これが、上杉景勝が関ヶ原の戦いに参戦できなかった最大の原因です。
関ヶ原の戦いでは、東軍が西軍に大勝しました。徳川家康は、この戦いの勝利によって、
全国の大名に服従を求めました。上杉景勝は、関ヶ原の戦いに参加しなかったことで、
徳川家康の怒りを買いました。
徳川家康は、上杉景勝に対して、領地を越後1ヵ国に減らし、会津に移ることを命じました。
上杉景勝は、この命令に従わざるを得ませんでした。
これが、上杉景勝の悲劇と言われる所以です。
上杉景勝は、関ヶ原の戦いに参加できなかったことで、自分の領地や権利を失いましたが、
それでも「西軍最強」と呼ばれるほどの評価を得ていました。
上杉景勝は、会津に移った後も、自分の家臣や領民を大切にし、会津の発展に尽力しました。
上杉景勝は、慶長19年(1614年)に死去しましたが、その遺徳は今もなお讃えられています。
まとめ
この記事では、関ヶ原の戦いに参戦できず「西軍最強」と呼ばれた上杉景勝の悲劇について、
以下の4つのポイントについて解説しました。
上杉景勝の人物像と特徴
上杉景勝と徳川家康の関係と対立
上杉景勝と豊臣政権の関係と協力
上杉景勝と関ヶ原の戦いの関係と影響
上杉景勝は、関ヶ原の戦いに参加できなかったことで、自分の領地や権利を失いましたが、
それでも「西軍最強」と呼ばれるほどの評価を得ていました。
上杉景勝は、会津に移った後も、自分の家臣や領民を大切にし、会津の発展に尽力しました。
上杉景勝は、慶長19年(1614年)に死去しましたが、その遺徳は今もなお讃えられています。
関ヶ原の戦いに参戦できず「西軍最強」と呼ばれた上杉景勝の悲劇について、
ブログ記事を作成しました。
いかがでしたでしょうか?この記事が、上杉景勝に興味を持つきっかけになれば幸いです。